旅行?

飛行機の中、私はとっても暇だからこの記事を書こうと思う。

学校で最近、全然喋んなかったり、ガン萎えモードになっていたが、その理由を感想と共に囲うと思う。

私はこの3日間、福岡に旅行に行っていた。

この事で悩んでいて、ずっとガン萎えだったのだ。

というのも、父型の祖父の一周忌だったためだ。まあそれは福岡に行くきっかけでしかなかった訳だが。

その訳を書こうと思う。

私の父は去年の11月に脳出血で倒れ、今年の9月に障害者手帳を貰ったれっきとした障害者だ。

父の障害は高次脳機能障害の認知系だ。まあ簡単に言うと中度の認知症だ。

まあこの時点で私にとっては相当堪えるものなのだ。

父は日付の感覚が無く、食事を食べたどうかの判別は記憶ではなく、自分の腹の調子で判断するのだ。

だから家族は、家に留守番する以外は常に監視する必要がある。

性格までもが変わってしまい、怒りの感情が欠落し、悲しみの感情がかなり強くなってしまった。だから、何かあるとすぐ泣いてしまう。まあ暴力的な性格にならなかったのが幸いだが。

しかし前までは威厳のある父が、すぐ泣いてしまう小さい背中を見たらこっちまで鬱になってしまう。

といいことで、福岡に行く本当のワケは父の様子を親戚に見せて金銭的な支援を受けてもらいたいというそういった旨を伝えるためだ。

まあその親戚もなかなかに訳有りだったのだが。

次はその親戚について話そうと思う。

親しい親戚は4人いるわけだが、その内父の姉2人がお金を持っていて、とても優しく、気前のいい人たちだが、問題が1つある。

その問題のせいで家族一生悩ませられることになるだろう。

その2人は日本の宗教、創価学会のな信者なのだ。しかも、2人はもう50代後半になるのだが、信者歴30年という根っからの信者なのだ。

しかもその内の1人は脳梗塞で軽度の認知症なのだ。

そして父の祖母は認知症でボケてるというね。

完全に俺の家庭は終わってると思う。

父の実家におじゃました時も数珠と創価学会に関する本を渡された。その時、俺はそれを地面に叩くつけて、「そういうところなんだよ!!」っ言いたかったが、感情を殺して、なんとかその場をやり過ごした。

父にお香を捧げたときも、いきなり念仏唱え始めたし、それに乗っかって母と父もやってたし、一種の病気かと疑った。

決して宗教というのはバカにしたりしていない。むしろ私は宗教に対して、教養と知識が見につくものだと思っている。

だけど、実際に目の当たりにすると一歩引いちゃうし、熱狂的な勧誘も正直きついと思う。

だけど、それに一生向き合わなくちゃいけない。だってその2人がいないと、お金の支援を受けなくてはならないから。

もしも、俺が入信したらバカにしてくれ、もっとも俺はその時にはバカにするんじゃねえとキレてるかもしれないが。

この3日間で祖母の特別養護老人ホームだった。

ここから話が少し汚くなる注意

まず祖母がいる3階に登ってエレベーターを降りた途端に異様な臭いに困惑した。

それが老人の尿もれに匂いというの気がつくのは時間がかかったのだが。

ここで働いてる職員はすごいと思った。

戸惑っいる間にみんな進んでいって、最初に聞こえたのは父の泣き声だった。

私は初めて会ったのだが、ボケているというのは一目瞭然だった。

その後話したが、言語機能が辛うじて使える程度で私には何を言っているのかわからなかった。

父が質問に答えても3秒後には忘れて同じ質問をするということを祖母はしていた。

1時間根気よく、俺と妹を覚えてもらうように同じ質問に答えることをし続けていた。障害者の父とボケている祖母。

私はそれを眺めてとてつもない虚無感襲われた。

この3日間、温泉行ったり、いい飯食ったりと言うこともしてきた、もちろんお金がないから全部、金を持っている2人の親戚の奢りで。

つまりこの3日間ホテル以外はずっとその2人と一緒に行動しいたんだ。

妹はというと全く喋らないから俺が代わりに喋って、媚を売って、とても疲れた。

これが3日間の感想だ。

まあ最初に言った悩んでいた訳なのだが、私はこの創価学会という宗教に一生向き合わなくちゃいけないという事実と、自分の父が障害者ということが現実味を増してきて、将来に不安生まれたからだ。

そのせいで俺は若干の鬱になった。

この問題は友達言っても問題が解決する訳でもないし、むしろ俺に対して見る目が変わると思って、誰にも打ち明けないまま冬休みを迎えたという訳だ。

じゃあなぜ今更ブログで書いたかというと、1人で抱え込むほど俺の精神面は成熟していないということだ。

この状況を誰かに言ってスッキリしたかった。だけど、1人に話すのは何だか重い。相手側もなんだか可哀想と思ってしまい、今に至る。

 

もう悩むことは解決したから3学期からは普通に過ごせると思う。そう思いたい。