11/22 20時 今までの人生(5年生まで)

文字打ってたら楽しくなってきたから人生を振り返りたくなった。そもそもこういうブログや日記はなにか思い悩んでいるときくらいしか書かないので、折角悩んでるし、いっぱい書こうと思う。

 

 

生まれは沖縄だけどそこから福岡、さいたま、また沖縄そこから今の千葉という変遷だ。前までは遊牧民とか言ってたけど、今はすっかりと落ち着いている感じだ。

福岡では大地震が起きた記憶しかない狭いアパートだった記憶がある。さいたまはクローバーマンションって場所に住んでいたかな。今思えばマンションに住めるほどお金に余裕があったのが不思議だった。お父さんの闇の歴史が絡んでそうだなーって思った。

 

幼稚園時代は、周りの幼少期の記憶はどのくらいあるのか知らないが俺は本当に部分的にしか覚えていなかった。ただ当時から言えることはすんごい人見知りだった。最近は人見知りというよりかはコミュニケーションを図ることを嫌っているという感じだが。

なかにしようちえん漢字はわからないけどもそこにいた。クラスの名前は覚えていなし当時の写真もまったくない。俺の親が写真をあまり残さない主義だからない。今思えば、写真とか日記とか絶対に残したほうがいいよなーって思っている。だからといって写真をとる習慣もないから、今のフォトフォルダーは数少ない。いちかが昨日1000枚消したって言っててびっくりした。ありすぎるのも考えようだ。

話がそれたが、俺の幼少期の記憶はあらしろむとうってやつと仲良かったのと幼稚園自体がすごくきれいだったのと近くに市民体育館があったくらい。あと今は亡きおばあちゃんが毎回買ってきてくれたポーク弁当。色々思い出してきた。なんちゃらおばさんの家に行ってそこでくつろいだり、音楽はm-floMEGARYUが流れていた。今思うとセンスいいなって感じる。あとはいとこのあいりとたくやと喋った。学校のゴミ箱からデルトラ・クエストを見て、当時はそのジャケットを見てすごいビビった記憶がある。あとはおばあちゃんがいると思い、大型スーパーへ一人で行った。デュエマカードを乞食するためだった。その時はすごい迷惑をかけたが、冒険心があったんだなーって思った。今とはぜんぜん違う。変わらないところは泣き虫ってところだけだ。冬の沖縄がすごい寒かった。帰り道にガジュマルの木が印象的だった。神羅万象チョコの攻撃力∞のただのレアカードを当てて目をキラキラ輝かせていた。このくらいかな。すごい引っ込み思案だったかなあと鼻くそ隠れて食べてた。

 

小学校から千葉に引っ越した。寒すぎてびっくりした記憶がある。そこで小学校卒業まで低体温症になっていた記憶がある。小学校3年生のころ34度を叩き出したの今も覚えている。34度ってありえないのかな、その時児童館にいて千田先生も嘘だろって言ってたのが印象的だった。小学校の記憶はまあまあ覚えてるかなって感じ人並みだと思う。

その時もまだ人見知りだった。1・2年生の頃は中村先生が、3年生は塩田先生。4年制は瀬口先生。5・6年生は酒井先生が担当だった。副担任はマルタ先生で音楽の先生は岩渕先生だった。保険はおばさんだったけど名前は思い出せない。振り返ればどの先生も素晴らしい人格者だなって思った。

中村先生はチョーク食べたり雑巾の絞り汁飲んだりぶっ飛んでいた先生だったが、ちゃんと叱ってくれるしそれなりに統率のとれたクラスだったと思う。この時期はなかなかまとめ上げるのが難儀だと思うが、中村先生はユーモアがあって字もうまくてすごい好きだった記憶がある。ただトイレ掃除でなにかやらかしてげんこつ食らった覚えがある。今も生きているのかなーって思う。

給食のしゃもじをしゃぶったのは同じクラスだったやつは大抵覚えていると思う。その時は赤間純平とずっと遊んでた記憶がある。校外学習は上野動物園ということしか覚えてない。動物を見た記憶もその前後もまったく覚えていない。天気は雨だったかな。小学校の卒アルもどっかいっちゃった。中1から卒アルに写っている女子生徒でオナニーするという、ド変態自慰をかましていた。

当時は常識知らずの人見知りで泣き虫として先生に見られていたんだろうなーって思う。

今調べたが、小学校3年生に上がるタイミングで東日本大震災がおこった。その時は太陽の家か外にいた記憶がある。てかこの時期から太陽と遊んでたっけわからん。

当時は電気がしばらく止まって。回して発電してラジオを流せるものを一生懸命使っていた記憶がある。その日は余震もひどくて親父が家でほかは小学校の体育館で寝泊まりした。3月ということもあってすごく寒くて、低体温症を患っていた俺は死にかけていた。けど暗闇の中おばあちゃんが優しくお布団をくれたのが印象的だった。朝は備蓄品のパンが食べ放題でやった!!!って思っていた。その年でもこの災害がどれだけの影響を及ぼしていたのか理解できていた。

 

小学校3年生は塩田先生だった。おばさんだった。その当時暴れ馬だった緑川ゆうじがめちゃめちゃおとなしくなったって記憶しかない。校外学習はイシイのハンバーグ工場だった記憶がある。そのくらい。やっぱり人見知り。それと同時期くらいから学童に通い始めた。

学童では、甘利にすごいいじめられていて行きたくなかった記憶しかない。こういういじめで今の俺の人格に大きく作用しているんだなって感じる。まって、小学校の頃中村ひろきが小野紅葉の髪の毛をきって大問題になった記憶を今思い出した。話はそれたがこの作用によって、ひと目を気にしたり、相手の負の感情にめっぽう弱くなったんだろうなと思う。

小学校4年生は小学校生活の中でもかなり印象的なシーンがあった。それは校外学習で東日本大震災で被害を受けた銚子市に行き、当時の悲惨な現状やその時の対応を現場の声を聞くという内容だった。それが新聞に掲載されて、千葉テレビでも放送されたって記憶がある。今思うとすごい貴重な体験だったが、幼少期の俺はくそつまらんって思ってた。担任の先生は無事に教育委員会へと行きましたとさ。瀬口先生は人情に厚い人だった。それに関するエピソードはないけど、熱い先生だったかな。わからんけど。

 

その時くらいから、テストでいい点数をとっていて家族から親戚からすんごい持ち上げられていた記憶がある。井の中の蛙である。小学校で点数なんてあってないようなもんだし。褒められ続け、悪い評価をもらわなかった結果が今の悪いところに繋がっている。

小学校5年生くらいから人見知りが徐々に消えていって学級委員長をやった記憶がある。その時から目立つ快感を覚えていったのかなって思う。この歳くらいに精通して早々に性癖を開拓していた記憶がある。その時くらいから周りはシモネタを話し始めてオナニーしたことある?って会話していた記憶ある。それでオナニーやってみようって思ったらでた!!!!オカズなんてなかったその時はニコ生主のMOTTYの30分10本勝負を聞きながら射精したってのは明確に覚えている。しばらくはなぜかオナニーするのは寂しいのでAV流しながら、裏でラジオ流してオナニーするという聖徳太子スタイルをとっていた。

それでウイルスに感染して初めてのノートPCを真っ二つにバキバキにした記憶がある。

 

いろいろ考えたらまじで止まらないくて10000000文字いきそうだからこのくらいにしとく。気が向いたらやる